高野長英

〜 今週はプラザイン水沢より 〜

コンニチハ。TSU・BO・NEです。水沢出身の三偉人のご紹介をしてまいりましが、いよいよラストのご紹介になります。今回は蘭学者の「高野長英」です。
高野長英は、1804年5月5日仙台藩水沢留守家家臣後藤実慶の三男として生まれましたが、9才で父を亡くし、母方の叔父高野玄斎の養子になりました。
高野家は祖父も養父も医者であり、弁学のため17才で高野家の反対を押し切り江戸へ旅立ちましたが、波乱な人生の転機となってしまいます。
1823年、長崎にてドイツの医学者シーボルトより、蘭学蘭方医学を学び、1828年シーボルト事件の際江戸へ戻り町医者となりました。
1839年外国情勢への対応を述べた「夢物語」を書きましたが、幕府批判の罪に問われ、「蛮社の獄」により永牢されました。
1844年の牢屋火災で脱獄し、郷里の母に再会したのち再び江戸へ戻り、薬品で人相を変え、「沢三伯」を名乗り町医者をしていました。
1850年(47才)10月30日幕府の役人に襲われ生涯を閉じました。
水沢区吉小路の生誕の地には、生誕の地碑と座右の銘の碑がありますし、記念館は水沢公園内にあります。

座右の銘

 たえねばや はては石をもうがつらん かよわき露の力なれども